江戸小石川「伝通院」の本堂前広場。300人くらいは優に集合できるだろう。ここから「浪士組」は出発した。



近藤勇の最後

 

慶應4年(18684月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、板橋宿脇本陣「豊田家」に幽閉されていた。板橋宿は北から上宿、仲宿、平尾宿と連なり、豊田家は平尾宿の脇本陣を務めていた。

 

425日斬首された近藤勇の首は京都に送られ、胴体が処刑場の近くに埋められた。その夜、胴体は近親者により掘り出され、三鷹市の竜源寺に密かに埋葬された。三条河原に晒された近藤勇の首は三日後、忽然と消え去り、その後長い間所在が不明であった。

 

2004年に放映されたNHK大河ドラマでは近藤勇の首は斎藤一によって持ち出され、会津若松の某寺に密かに埋葬され、墓を守るために斎藤一は会津若松に残ったように描かれていたと思う。ここでは別の説を紹介しておく。

 

三条河原から持ち出した近藤勇の首は、生前親交のあった京都誓願寺の称空義天大和尚のもとに持ち込もうとしたが、すでに和尚は三河国法蔵寺に貫主として転任していた。同志は密かに近藤勇の首を三河国法蔵寺に運び、逆賊という事で分からぬように埋葬した。

昭和33年(1958)、京都誓願寺で当時の状況を記した記録文書が見つかり、照合した結果、文書通りに三河国法蔵寺で墓の台座・遺品などが発見され、この説が有力になった。この後、法蔵寺では「近藤勇の首塚」として「胸像」などが建立されている。

 

 

平尾宿脇本陣「豊田家」跡。マンションが建っているが、案内板があるので、それと分かる。



明治9年(1876)近藤勇の胴体が最初に埋められた場所に、墓碑が完成する。これは新撰組2番隊組長の永倉新八が、元幕府御殿医の松本良順(明治になって松本順に改名)らの資金援助を得て、ようやく完成させたものだ。その後、昭和4年(1929)に永倉新八の墓碑も建てられ現在に至っている。

 

右手の墓碑銘に「近藤」「土方」の名が連名で見える。左手が「永倉新八」の墓。


近藤勇の処刑された場所には案内板がない。不動産屋さんの路地を入ったところ(JRの線路脇)が臨時の処刑場だったそうだ。1980年頃教えてくれた古老は、近藤勇が斬首される現場に居合わせた祖父から子供の頃に聞いた話として聞かされたという。100年前の話は何か生々しい。



江戸の幕末

 

文久3年(186325日、伝通院で浪士組が結成されるおよそ2か月前に二つの事件が起きている。

時系列で並べるとこんな具合だ。

文久2年(18621212日。品川御殿山で建設中のイギリス公使館が焼き討ちされる。開国に反対する「尊王攘夷」の志士の仕業であろうと噂された。

文久2年(18621221日。和学講談所の塙次郎が天皇廃立調査の疑いで、「国賊」の掛け声ののち切り付けられ、暗殺される。これも当時は犯人が分からなかった。

塙次郎(忠宝)の父親は塙保己一。塙保己一は盲人の最高位「塙検校」を名乗り、日本史上有名な「群書類従」の編集者である。博覧強記の天才としても有名。

 

実はこの二つの事件には長州が絡んでおり、「イギリス公使館焼き討ち事件」の首謀者は高杉晋作で実行責任者が久坂玄瑞、実際に火をつけたのが井上聞多、伊藤俊介(後の伊藤博文)らであることが後に公表された。「イギリス公使館焼き討ち事件」は国際問題であり、うやむやには出来なかったようだ。

 

「塙次郎暗殺」については、明治になってもうやむやだったが、今では暗殺実行者は伊藤俊介(博文)、山尾庸三とされている。おそらく久坂玄瑞に命令されて暗殺に及んだと思われるが、生前伊藤博文はこの事件について尋ねられると、否定はしないものの「忘れた」と言って、背後関係を語ろうとはしなかった。

その翌年、文久3年(1863418日、京都で壬生浪士組(新撰組の前身)が産声を上げたその頃、伊藤俊介は井上聞多、山尾庸三らと共に藩主から洋行の命令を受け、512日、横浜から密出国しイギリスに向かう。

途中上海でイギリス軍艦100艘以上を目撃し、衝撃を受ける。また、苦力(クーリー)として働かされる中国人を見て、植民地の悲惨さを目の当たりにする。その体験が「攘夷」から「開国」へと思想を進化させていくきっかけになったと思われる。井上聞多と伊藤俊介がイギリスから帰国するのは、新撰組が池田屋を襲った元治元年(186465日の5日後のことだった。


 

 

 

岡田以蔵、相楽総三(後述予定)、安重根らの暗殺者は「テロリスト」と言われる。政治的に「テロリスト」と呼ぶことは理解できないわけではないが、「テロリスト」のレッテルを張って思考を停止するのは「考える人」としては失格だと思う。

例えば「伊藤博文」は20歳の頃は「テロリスト」であったかも知れないが、その後「政治家」として大成している。進化論風に言えば、魚類から両生類・爬虫類に進化するのに数億年かかっているが、スイッチが入ったのは数億年の一瞬であると思う。一旦スイッチが入ると後戻りできない形で(不可逆的に)進化は進む。人間も同様で、あるきっかけで「テロリスト」は「政治家」に進化する。伊藤博文を見ていると久坂玄瑞の手下から、よくもここまで進化したと思う。人は変わりうるという事、振り子のような可逆的な変化ではなく、不可逆的な進化を伊藤博文は体現していると思う。

 

<参考>

塙保己一の「和学講談所跡」が駐車場に変わって、何も残されていないことに不安を感じて調べたら、10年ほど前の「案内板」の文面を見つけたので、一部編集して転載する。

 

東京都指定旧跡「和学講談所跡」

所在 千代田区三番町24

指定 大正7

塙検校(17461821)は江戸時代の国学者。

幼名寅之助のち保己一と改名。武蔵国児玉郡保木村に生まれ、幼くして失明したが、江戸に出て賀茂真淵らに国学を学ぶ。和漢の額に通暁し、天明3年(1783)検校、文政4年(1821)に総検校となる。

この間、寛政5年(1793)江戸麹町に和学講談所を設立し、講義・会読のほか京都・名古屋などにも史料を採訪して「群書類従」670冊を文政2年(1819)に完成させた。これらの書物は明治以降の国史・国文学研究に大きな影響を及ぼした。

昭和52331日 建設 東京都教育委員会。